福雷橋と金村別雷(わけいかづち)神社
2022年 10月 16日
すぐ近くに「別雷神社」と、こちらも"雷"の文字を含む変わった名称の神社があり、興味を引かれ訪れてみることにした。
某総合運動公園にクルマを停め、里山を下る。
途中、「願牛寺」の名称に引かれ寄り道。
「願牛寺」は親鸞聖人がこの地へ布教に訪れた際、開山したとされる創建800年の歴史あるお寺だ。
この辺りは大高山と呼ばれ、暴れん坊・吉宗公の頃に新田開発で干拓されるまでは三方を沼に囲まれる急斜面の高台であった。寺を建てる材木を運び上げるのに難儀していたところ、どこからか現れた一頭の牛が背に負って全て運び上げてくれ、これを喜んだ親鸞聖人が「願牛寺」と命名したのだとか。
二度の焼失で、往時を偲ばせる建物は残念ながら何も残っていないが、代わりに、寺の宝物でもある江戸期の掛け軸に描かれた当時の様子が、由緒書きとともに掲示されていた。
先程通ってきた路、かつては沼の縁であったようだ。
沼の中に「牛木」という大きな黒い沈木(?)のようなものが見える。これに関する説明は何もないが、件の牛とは何か関係あるのだろうか。
門を出て、再び沼の縁であった辺りを伝っていくと鬼怒川土手に突き当たった。
石下大橋の袂に多数のお宝が並べられているのを発見。
USアコード・クーペ。
「Get it on」の流れるCMがカッコよく、憧れたなぁ。新車のときは無理だったが、中古をあともう少しで買いそうになった。
アルシオーネ。
こんなショーモデルみたいなデザインのクルマ、よく発売したと思う。バブル景気のなせる業か。今の乗用車メーカーには絶対無理だろう。
アルシオーネの向こうには944が2台。
ブリスターフェンダーでグッと踏ん張る佇まいにしびれる。
はす向かいの駐車場もお宝の山。924、944、928迄ある。プレリュードにZ32、MR2等々。今現役で手に入るのなら、どれも欲しいクルマばかり。
廃業されたお店のものなのだろうか。タイヤはペシャンコで地面にめり込み、もうどのくらい放置されているのか。あとは朽ち果てていくだけかと思うと、もったいないなぁ。
石下大橋を渡り、関鉄「石下駅」周辺をしばし散策。
大谷石の蔵
通称「豊田城」。
一面の平野の中、遠くからでもよく目立ち、あれは何だ! と驚かされるが、歴史上実在した豊田城とは何の関連性もないただの公共施設。
実在の豊田城は将門公と同じ桓武平氏一族の豊田氏により、ここより東、小貝川近くに築城されたが、そちらには「城址」の碑が建つのみだ。
市街地を抜け、刈り入れの終わった水田地帯を通り越すと、小貝川はすぐ。一旦川を渡り、ゴルフクラブに隣接する谷津に入り込んでみた。
途中オオタカかハイタカらしき猛禽が横切っていくのを見掛け、他にも居ないかと期待ししばらく上方を気にしていたが、飛んでいるのはカラスばかりであった。
もうそろそろかなという辺り、Google Mapで別雷神社を確認すると・・・、ん? 土手の下?
河川敷の林の中に忽然と建っていた「別雷神社」。
この場所は元から河川敷だった訳ではなく、昭和半ば頃迄は神社の西側を流れている小貝川が東側にあり、一帯が門前町であったのだとか。水害対策であったのだろうか、改修工事で川の流れが変えられ、神社だけが今の場所に残った。
それにしても、こんな場所にあって川が増水したときは大丈夫なのだろうか。境内を歩いておられた地元の方らしい男性に訪ねると、拝殿・本殿は一段高い位置に建っているため、境内が浸水しても建物が水に沈むことはないのだそうだ。
そんな高い位置にあるようには見えないが、先日小目沼橋が渡れぬほどに増水したばかりであったにも関わらず、確かに建物に水に浸かったような跡は見られなかった。
境内には銀杏や桜の木々が植わり、紅葉や花の季節に訪れるのもまたよさそうだ。
参道にあった、多分ケヤキ? の巨木。
一の鳥居。ニノ鳥居から入ってしまったが、本来はこちらから来るべきであった。
参道を出て土手へ上がったところにあるのがもう一つのお目当て「福雷橋」。
小貝川を渡った向こうの地名が「福二」となっており、そこと神社を結ぶ橋ということでつけられた名称なのだろうか。
小目沼橋ほどではないが、なかなか味のある佇まい。
「昭和五年四月竣功」とある。
読み方は「ふくらい」。
以前は鬼怒川のトラス橋を巡ったが、小貝川の沈下橋巡りも周辺の里山散策と組み合わせると、なかなか面白そうだ。
こちら方面も、少し通ってみようかな。
帰りに三妻辺りで見掛けた、にらめっこ中のお二人ちゃん。
DIAMONDは、のんびり走るのにもってこい。
by the_4th_cat
| 2022-10-16 18:56
| 坂東サイクリング
|
Comments(0)